「指先一つで完結する世界。そこに体温は残っているか。」
「メニューをめくる音、店員さんの相槌、迷う時間。」
「効率という名の刃が、小さな物語を削り取っていく。」
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どうも、積立MASAです。😊🚙💨
最近、ニュースを見ていると「店内スマホオーダー」の導入が急増しているという話題をよく耳にします。飲食店に入って、テーブルのQRコードを読み込み、自分のスマホで注文を完結させる。店側からすれば人手不足解消やミスの削減、客側からすれば店員さんを待たなくていい。一見、完璧なシステムに見えますよね。
でも、40代後半、50代の足音が聞こえてきた私のような「古い人間」からすると、どうしても心に引っかかるものがあるんです。実を言うと、最近のお洒落なカフェでQRコードを出された瞬間、少しだけ身構えてしまう自分がいる。……なんだと……、この「注文」という高いハードルは……と。w
📋 「食券」じゃ、ダメなんですか?
ニュースの中で語られていた「あり・なし」論争。私の答えは、限りなく「なし」に近い「あり」です。人手不足はわかる。効率もわかる。でも、あえて言いたい。「食券機でいいじゃないか」と。入り口でパッと選んで、紙を渡す。あのシンプルさ、あの安心感。スマホの充電を気にしたり、電波状況にイライラしたり、小さな画面でオプションをポチポチ選ぶストレスに比べたら、食券機のボタンの方がよっぽど人間味がある気がするんです。
📱 デジタルが奪う「選ぶ愉悦」
私が住んでいる一階建ての平屋では、庭のみかんの木を眺めながら静かな時間を過ごすのが至福です。そこには「アナログの良さ」が満ちています。でも一歩外に出れば、そこはデジタルの荒野。スマホオーダーの画面は、整然としていて無機質です。
「すみませーん!」と声をかけて、店員さんが「はい、お伺いします」とやってくる。その数秒の間に「やっぱりこれにしよう」と決める、あのライブ感。メニュー表の油染みを見て「この店はこれが人気なんだな」と推察する、あの情報量。スマホの画面には、それらが一切ありません。
外食時のスマホ操作、少しでも楽にしたいなら……
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価格:1280円 |
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🏚️ 親世代への壁、そして自分たちの未来
もう一つ、気になるのは「親世代」のことです。私の両親に、このスマホオーダーができるかと言えば、答えはNOでしょう。設定で手間取り、画面が切り替わらず、結局注文を諦めて店を出てしまう。そんな光景が容易に想像できます。
デジタル化を進めるのはいいけれど、それによって「取り残される人」が出てくる。それは、いつか私たちが経験する道でもあります。今のスマホオーダーに戸惑う私たちは、10年後、20年後、もっと新しい何か(例えばARオーダーや脳波注文とか?w)に戸惑っているはずです。
効率化の果てにあるのは、本当に豊かな社会なのでしょうか。
📋 衝撃の「おもてなし」の現在地
先日、ある店でスマホオーダーを済ませた後、店員さんが料理を運んできた時のことです。
一言も、目が合わなかった。
……なんだと……!?
注文がデジタル化した結果、接客というコミュニケーションさえも「効率化」の対象になってしまったのか。まるで「チャドの霊圧が消えた」かのように、店内の活気が削ぎ落とされている。いや、もちろん静かに食べたい人には最高でしょう。でも、私は思うんです。「美味しいね」の前に、何か大切なプロセスを失っていないかと。w
🛠️ 40代が取るべきスタンス
私たちは、この変化を否定するわけにはいきません。でも、手放しで歓迎する必要もない。スマホオーダーを使いこなしつつ、同時に「食券機の方がいいよね」「対面の方が安心だよね」と言い続ける。その「ボヤキ」こそが、過度なデジタル化にストップをかける、小さなブレーキになるのかもしれない。
便利さは享受する。でも、不便さの中にあった「豊かさ」は忘れない。それが、40代後半を生きる私たちの、静かなる抗い方だと思うのです。
いつか、スマホすら持たずにふらりと立ち寄った店で、最高の笑顔で注文を聞いてもらえる日が来ることを、私は密かに願っています。
「便利になった。でも、何かが足りない。」
「指先の操作よりも、心の動く瞬間を探したい。」
「私のボヤキは、今日もしがない日常を彩っていく。」
─── 積立MASA 👍✨



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